誰かがそっと肩をたたくまで
僕は目を閉じて……、ぼくは祈っている……。
気がつくと、空から眩い光を放つ拳大の球体が飛来して、ぼくの眼前に留まる。球体の光が点滅しはじめると、徐々に、羽の生えた人間のシルエットが浮かび上がり、黄緑色のレオタードを身に着けている十代の娘が姿を現す。どことなくジュディー・ガーランドに似た彼女は、舞台メイクを思わせる濃いアイシャドウをいれ、まとまりのよい金色の髪を後ろでアップしている。真紅のルージュを塗った口元と、虹色に煌めくチャーミングな羽は、まるでピーターパンに出てくる妖精のティンカーベル(通称ティンク)を思い起こさせる。妖精は優しい微笑みを浮かべながら、ぼくに向かってウインクする。
ぼくは口を半分開け、その場に立ちすくむ。彼女は一度溜息をつき、顔の前で両手を振ってぼくのぼんやりとした意識を呼び戻そうとする。
鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「やっほー!」
その声は、心地よい鈴の音のように(或は本当に鈴の音かもしれない)、ぼくの耳に、そして心に響きわたる。
ぼく「やっほー!」
妖精のご挨拶は「こんにちは」ではなくて、「やっほー!」なのだ。
それが大昔からの取り決めであり、合い言葉。
鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「あんた、あたいのことが見えるのね?」
妖精はぼくをあんたと呼び、自分のことをあたいと言った。
ちょっと意外な気がした。
ぼく「うん。見えるよ。とても綺麗な光だね」
鈴の音(ティンクの声)、やや鋭く(機嫌を損ねている?)。
ティンク「あら、綺麗なのは光だけかしら?」
大袈裟に頬を膨らませ、腕組みをしながらティンクが真剣な声でぼくにたずねる。
ぼくは妖精の機嫌を損ねてしまわないように注意を払う。(すぐに人の機嫌を損なわせてしまうのは、ぼくの数ある欠点のひとつだ。)
ぼく「もちろん。君もとても素敵だよ。品がいいし、その羽もすごくキュートだね」
彼女は笑窪をつくって微笑んだ(どうやら満足したようだ)。そして上目遣いにぼくを見ながら「パチンパチン……」という音をたてて瞬きをくりかえした。感情が顔や態度にわかりやすく出やすい子なのだ(表現力が豊かと言ってもいい)。
光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「ねえ、あんたって、空を飛べるの?」
ぼく「いや。ぼくは空を飛べない」
光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「試したことは?」
ぼく「ないよ。試さなくてもわかる。だってぼくの背中には君のようにチャーミングな羽は生えてないからね」
光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「あたいの羽はただの飾りよ。ウサギの耳やてんとう虫の斑点と同じなの。しるしみたいなものよ。この羽をつけていれば、みんながあたいを妖精だとひと目でわかるし。本当は羽なんかあってもなくても空は飛べるのよ」
ぼくは空を見上げる。試しに膝を深く曲げて勢いよくジャンプしてみたが(ピョン!)、すぐに両足は地面についてしまった(ダン!)。
ぼく「やっぱり無理みたいだね。ぼくはピーターパンじゃないしスーパーマンでもない。住んでいる場所はネバーランドじゃなくて川崎だし、出身はクリフトン星じゃなくて愛知県だ。そういう人間は空を飛べやしない。残念だけれどね」
そう言った後、ぼくは自分が口に出したことをひどく後悔した。急に瞼が熱くなり、視界が滲んだ。ぼくは大きく息を吐き、何度も首を振ってそれを押しとどめた。妖精に泣いている姿を見られたくなかった。
光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「あんたって、変な人ね」
とティンクは言って、呆れたふうに肩をすぼめた。
ぼく「空を飛べることだって変だと思うけれど」
とぼくは穏やかに抗議した。
ティンクは大袈裟に肩を落とし、額に手をあてた。
短めの光の点滅、短めの鈴の音(ティンクのため息?)の後、光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「……(やれやれ)、あんたは何にもわかってないのね。空を飛べない人はあたいの姿を見ることができないし、あたいと話すこともできないのよ」
ぼく「それならどうしてぼくは空を飛ぶことができないのだろう?」
光の点滅。鈴の音(ティンクの声)。
ティンク「あんたはそれを忘れているのよ。忘れているだけ。素敵なことを考えるの。そして心から信じるのよ。わかる?」
と彼女は静かに言った。まるで幼い子供に言い聞かせるように。
素敵なこと、信じること。ぼくは頭の中で考えてみた。
いつもプリプリ怒っている自宅近くのセブンイレブンのアルバイトの女の子が、愛想良く接客してくれること。一年に一度のユーザー車検がスムーズにパスできること。インターネットで買った帽子が予定日にちゃんと配達されること……。
あまりぱっとするような素敵なことは浮かばなかった。ティンクは十秒か十五秒ぼくの顔をじっと見た。
光の点滅。鈴の音(ティンカーベルの声)。
ティンカーベル 「変な人」
と妖精は言った。そして空に舞い上がり、流れ星のようにあっという間に飛び去ってしまった。ぼくはその様子を何も言わずに眺めていた。妖精の姿が見えなくなると、ぼくはとても悲しい気持ちになった。まるで失恋したみたいな気分だった……。
誰かにそっと肩をたたかれて(ポン)、僕は目をさます。パソコンの画面はスリープモードになっている。心の中には失恋の跡が(しるしのように)少しだけ残っていて、それが夢や想像ではないことを僕は知る。うまく説明はできない。でもとにかく僕はそれを受け入れる。心から信じる。「やっほー!」と僕は口に出して言ってみた。大昔から伝わる妖精達の素敵な合い言葉。虹の向こうでひとつ星が瞬き、心地よい鈴の音が響きわたった。
2022年 2月